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zoom RSS 想像力の重要さについて

<<   作成日時 : 2013/11/03 15:40   >>

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前半、手前ミソと自画自賛。後半、メッチャ長い論文風記事。


想像力の大切さについて、

現在の日本の風潮に、

危機感を抱いている旅人が、

少し辛口の、

忌憚のない意見を述べさせてもらいました。




手前ミソな話なんだけど、

自分が書いたブログのなかで、

僕が一番重要に思っているのが、

春風と天使

というブログだ。


これまで、

いろんなブログ記事で紹介してきているので、

ご存じの方も多いかもしれない。


内容は、

今から20年くらい前の1990年代はじめ、

当時、走り屋をしていた僕が、

たまたま出会った名も知らぬ若い女性ライダーに、

走り屋行為を厳しくたしなめられ、

その結果として、

走り屋をやめる決心をするというもの。

どこの誰ともわからぬ僕の命を、

本気で心配してくれる、

彼女の真心に打たれてのことだった。


自分で言うのもなんなんだけど、

まさに、青春ドラマに出てくるような話で、

実際に起こったこととは思われないような、

ドラマチックな出来事なのだ。

作りものでなく、

演出もいっさいなしで、

これだけ内容が整っているというのは、

それ自体奇蹟に近いことだと思う。


さらに、

この記事では、

走り屋行為の違法性や危険性を、

説教するという感じではなく、

衝撃的な事実をおりまぜた、

秘話というかたちで示しているので、

その面で、

安全運転の重要性が、

ごく自然に読む人の意識に浸透していき、

交通モラルの向上に、

資するところがあるのではないかと、

考えている。


僕はこの出来事について、

僕の人生における、

最高到達点であり、

最大のハイライトだと思っている。



そのため、

僕としては、

この記事はウケると思っていたし、

そうあって欲しいと願ってもいた。

日頃、身を危険にさらしながら走っているライダーなら、

その豊かで鋭い感性で、

なんの支障もなく、

僕の思いを理解してくれるだろう。

そして、

僕の体験したことを、

自身に置き換えることも容易だろう。

それゆえ、

公開したあかつきには、

きっと、大きなリアクションがあるに違いない。


そう思っていた。


ところが、

いざ、公開してみると、

残念ながら、

それほどの反響はなかった。

確かに僕のブログとしては、

アクセス数の多い部類に入るのだが、

それでも、

当初、予想していたほどではなかった。



そんななか、

意外な人物が、

このブログに共感してくれたのだ。


その人は、

それまで、

何度かコメントのやりとりを通じて交流していた、

年配の女性で、

彼女はこれまで、

オートバイとはまったく無縁の人生をおくってきた。

そのため、

峠とか走り屋とか言っても、

まったくピンとこないはずなんだけど、

その彼女が、

僕のこのブログを、

ほかの誰よりも理解してくれたようなのだ。


ここで、

彼女のコメントの冒頭の部分を引用させてもらう。



“旅人さん、今晩は♪

生来せっかちな私は、

あまり長々と書かれた日記を最後まで読むことはありません.。o○

でも、

今回は、

内容が内容なので、

それに引き込まれて、

最後まで読みました。”


(原文のまま)



けだし、名文!

この冒頭の短い言葉だけで、

彼女の言いたいことが100%伝わってくる。

彼女は、

僕の“思い”に共感してくれた!

この記事の本質を完璧に理解してくれた!!

彼女は、

話に“引き込まれた”と言い、

そのあまりに劇的な展開に、

登場する女性ライダーのことを、

観音様の化身(けしん)だとまで言った。

それが何よりの証拠だと思う。

そのうえで彼女は、

彼女独自の人生観、宗教観に基づく、

感想を述べてくれている。




僕のブログ全般について言うと、

おそらく読者の大半を占めるであろう、

現役のライダー諸氏。

その彼らにあまりウケなかったこのブログが、

なんと、

オートバイについてなにも知らない、

まったくその方面に関わりのない、

ひとりの年配女性から、

熱い支持を得るにいたったのだ。

これはいったい何を意味するのだろう?

僕なりに考えてみたところ、

次のような結論に達した。


すなわち、



大事なのは、

経験や知識ではなく、

想像力なのだと。

そして、それを育む、

人間への興味や、

この世界のあらゆるものに対する、

好奇心なのだと。

それさえあれば、

自らに無縁な世界の出来事でも、

その本質をすばやく見抜いて、

共感することができるのだと。




しかしながら、

このような、

いろいろなものに対する興味や好奇心は、

本来、若い人の得意分野であり、

人間は年を重ねるにつれ、

それを失っていくのが常なのである。

にもかかわらず、

今回、年配の彼女に、

彼女よりずっと若いと思われる、

ライダー諸氏以上のそれを、

見出せたような気がするのだ。


おそらく、彼女は、

若い頃から知性を磨いてきたのだろう。

知性と感性は高度に一体化しているので、

知性を磨くと、

感性も研ぎ澄まされ、

いつまでもそのみずみずしさを失わない。

だから、彼女は、

自分に関わりのない分野でも、

そのみずみずしい感性という高感度アンテナで、

容易に本質的部分をキャッチし、

趣旨を把握することができたのだ。


あらためて、

彼女の能力の高さを感じるとともに、

そんな彼女と出会えたことに、

心から感謝するのだった。




人間は、

年をとると感覚が鈍くなってきて、

変化に対応できなくなる。


若かった頃には、

当時のトレンドに魅力を感じられても、

年をとると、

何世代も後輩たちの感覚にはついていけなくなる。

そうなると不満が募り、

愚痴ばかり言うようになって、

“昔はよかった”

などと、

過去のことを無批判に美化するようになる。

本人の中では時間が止まってしまい、

時代に取り残される。


しかし、

若い頃に研鑽を積んで、

知性や感性を磨いておくと、

その知性や感性が、

老化による脳の衰えを補ってくれるので、

時代の変化についていけるようになるのだ。


では、なぜ磨かれた知性や感性が、

変化に対応する力になりえるのか。

それは、

知性や感性を磨くことで、

物事の本質を見抜く目が養われるから。

物事の本質がわかれば、

どの時代のものだろうと、

どの国のものだろうと、

表面的な違いに惑わされず、

それについての正しい知識を得ることができる。

そして、その知識に基づいた、

正当な評価を下すことができるようになる。


人間は、

本質を見抜く目さえもっていれば、

時代にも地域性にも影響を受けることはない。

すなわち、

時間も空間も超越した、

究極の自由を得ることができるというわけだ。


アメリカでは、

生まれつき足が不自由で、

キャッチボールもしたことのない車椅子の青年が、

MLBのコーチに就任した。

日本では、

一度もオートバイに乗ったことのない女性が、

ライダーの魂を理解した。

本質を見抜く能力は、

実体験を凌駕するのだ。




以上、述べてきたことで、

一つだけ誤解して欲しくないことがある。

それは、

僕が、

“新しい時代のものはなんでも優れている”

と言っているわけではないこと。

むしろ、

そのあたりの優劣を判断するためにこそ、

本質を見抜く目が必要となるのだ。




それでは、

知性や感性を磨いて、

本質を見抜く目を養うには、

どうしたらいいのだろうか?


僕は、

これまで何度か過去ログで示してきたように、


“ヨーロッパの古典を読む”


ことこそがその近道だと思っている。

欧米のエリート候補生たちがやらされているように。


まあ、それが唯一の方法というわけではないのだが、

いずれにしろ、

将来の発展につながるような深い“何か”を、

つかみとっておく必要があるのだ。

この“何か”については、

人によって違うと思うのだが、

中途半端な気持ちでは得られないものだということは、

確かなことだと思う。

すなわち、

人生をかけるくらいに、

一つのことに懸命に打ち込んでこそ、

得られるような類のものだと。


このように、

本質を見抜く目を養うためには、

古典を読んだり、

また、それに変わる“何か”を、

手にする必要があるのだが、

それらは無条件で可能というものではない。

制約がないわけではないのだ。


もちろん、努力は必要。

でも、それだけではダメ。


ピュアで素直な感性や、

自由で豊かな想像力が不可欠なのだ。

年齢で言うと、

25才までがリミット

それを超えると、

頭が固くなってきて、

人間が生まれつきもっているそのような資質にも、

衰えがみえはじめる。

人間とは、そんな生き物なのだ。


だから、みなさんは、

時間を無駄にせず、

若いうちに、

自身の可能性を模索し、

物事に真摯に取り組んで、

いろいろ悩んだり考えたりしながら、

“これだ!”

というものをつかんで欲しい。


年とってから新しいことをはじめる人を見て、

“年とってからでもチャンスはある”

なんて思ったら大間違い。

彼らは若い頃に、

それなりの“何か”をつかむことによって、

すでに種蒔きを終了しているのだ。

ただ、遅咲きなだけ。


ま、

逆に言うと、

若い頃“何か”をつかんでいれば、

一生、挑戦者としての、

充実した人生を歩めるということだけど。

それに、

その“何か”をつかんでいるかどうかについては、

特に、本人に自覚があるわけじゃないので、

誰でもそれをつかんでいる可能性はあるわけだ。

だから、

25才を過ぎている人でも、

がっかりする必要はない。

もしかしたら、

それをつかんでいるかもしれないのだから。

自分を信じて、

前向きに生きていけばよいのだ。




とにかく、

“鉄は熱いうちに打て”

ってことだ。



さて、

日本の若者の想像力についてなのだが、

残念ながら、

年々衰えてきているような気がしてならない。


戦後におけるメディアの進歩には著しいものがある。

かつてのテレビ、

現在のネットの普及。

映像や音声の質はどんどん向上し、

リアルさを増している。

アニメやCGは、

それまで、

われわれが文章や挿絵から想像していた、

ファンタジーの世界を、

そのようなあいまいな姿ではなく、

本当に生きて存在しているかのような、

リアルな姿で再現してくれる。

そして、メディアは、

それらの技術を駆使したファンタスティックな物語を、

あるいはスリリングなゲームを、

日常的に提供してくれる。

どちらも非常に刺激的なので、

人々はそれらの魔法の世界に酔いしれ、

物語やゲームのとりこになる。

その結果、

バーチャルのファンタジーの世界に、

どっぷりとつかってしまい、

その分、

リアルに対する感覚がマヒしてきてしまうのだ。

これは、一種の中毒症状と言える。

そして、この中毒は、

当人が自覚しないうちに、

周囲の誰も気がつかないうちに、

徐々に心を蝕んでいくという点で、

とてもやっかいだ。


なかでも一番問題なのは、

このように、

高度な技術が提供する世界に慣れてしまうと、

われわれ自身に本来そなわっているはずの想像力が、

次第に退化していってしまうということ。


考えてもみて欲しい。

同じギリシア神話でも、

挿絵もない文字だけの本で読む場合は、

われわれの脳は、

風景、あるいは登場人物の顔や表情などを、

文章から、

想像力だけで思い描かなければならないので、

フル回転せざるをえない。

なにしろ、

われわれに与えられているのは、

文字情報だけなんだから。

われわれは、

荒れ狂う海や、

その波に翻弄される船、

恐ろしい表情で向かってくる巨人などを、

自身で映像化しなければならないのだ。


これだけ言えば、

本を読むという行為が、

どんなに想像力を必要とする作業なのか、

よくわかると思う。


一方、

アニメや、CGによる映像の場合はどうか。

それらは映像や音声で視覚、聴覚を刺激し、

われわれが実際にその場にいるかのような、

ヴィヴィッドな状況を作り出してくれる。

われわれの目の前には、

本物と変わらないくらいリアルな海があるし、

鬼のような形相をした巨人が、

画面から飛び出さんばかりの勢いで迫ってくる。

ここにおいては、

われわれが想像力をはたらかせるような余地など、

まったくと言っていいほどない。

われわれは何も考えず、

ただ、口をあけて画面をながめているだけでいいのだ。


このようなことは、

アニメやCGの世界だけにとどまらず、

日常生活においても言うことができる。

家電などの発達により、

今や、考えたり工夫したりしなくても、

容易に生活できる状況が作り出されている。

たとえば、

自身で判断して、

すみからすみまでムラなく掃除してくれる掃除機のように。

なんでも、2020年には、

人が運転しなくてもよい、

自動運転の自動車まで出てくるそうだ。


コンピューターをはじめとする、

文明の利器の進歩が、

工夫をしなくてもよい、

想像力をはたらかす必要のない世界を、

作り出しつつある。

これでは、

われわれの想像力は退化していく一方だろう。

洞窟の中で生活する魚に目がないように、

生き物の身体は、

不必要になったものを切り捨ててしまうのだから。



このようにして、

想像力を失った人間は、

次第に、

自身が本来もっている、

本能や、

通常の思考能力まで失っていく。

そして、そうなると、

それは生き物というより、

どちらかというと、

モノや機械、

すなわち、ロボットに近くなる。




僕は、

このままでいくと、

日本人は、

H.G.ウエルズの小説「タイムマシン」に登場する、

無気力で従順な、お人好しの種族、

エロイのようになってしまうのではないかと、

危惧している。




ところで、

想像力を失うと言えば・・・


最近、

歩きながら携帯を操作している人の事故が、

相次いでいる。



携帯を見ながら歩いていた40代の男性が、

遮断機のあいだをすり抜けて踏切に入り、

電車にはねられて死亡


携帯を見ながら駅のホームを歩いていた女性が、

線路に転落・・・等々




この種のニュースがネットで報道されると、

当事者たちは同情されるどころか、

そらみたことかと、

コメントでさんざんたたかれることになる。


まあ、

前を見ないで歩いていれば、

危険なことは承知のはずなので、

なにを言われてもしょうがないといえば、

しょうがないのだが・・・

子供じゃないし。


それにしても、

携帯見ながら歩いてる人って多いよね。

いつでも、

どこへ行っても、

普通に見かけるし、

もはや景色の一部と言っても過言ではない。


しかし、

何度見ても違和感を感じてしまう。


申しわけないけど、

この人、

ほかに楽しみないの?


とか、

この人、

心を病んでるの?


などと思ってしまう。


みんな、

表情うつろだし、

覇気が感じられないし・・・


どう見ても、

正常な精神状態には見えない。


だいたい、

携帯を見ながら道を歩くなんて、

危険きわまりないだろ。

人や車にぶつかるかもしれないし、

犬のフンをふんづけるかもしれない。

前からヤバイ人たちが来て、

その人たちにぶつかっちゃったら、

それこそ最悪。

現に、

盗撮したといんねんつけられ、

金を脅しとられる事件が頻発してるそうだ。


それに、

歩いてる時間まで使い、

このようなリスクをおかしてまでも、

携帯でやらなきゃならないことって、

いったいどんなことなんだろう。

それって、

危険を冒さなければならないほど、

重要なことなの?

それとも、

すべてを忘れるほどおもしろいの?


いずれにしても、

彼らの無防備さ、

警戒心のなさには、

あきれるばかりだ。

思うに、

彼らのこのような危機意識のなさは、

想像力の欠如に由来するもの。

上述のように、

今時の若者たちの想像力は、

コンピューター関連技術の発展によって、

かなり脆弱なものになってしまっているので、

自らの身に起こりえるであろう危難に、

想像が及ばないのだろう。


それと、

もう一つ気になるのは、

彼らの他者への関心のなさ。


携帯を見ずに普通に歩けば、

次々に移り変わるいろんな景色が見える。

春夏秋冬それぞれの季節に彩られた風景とか、

さまざまな表情で行き交う人々とか。

そのなかには、

とびっきり美しい、

自分好みの異性もいるかもしれない。


僕は子供の頃、

電車の窓から、

外を流れる景色を眺めるのが大好きだった。

それは幼い自分の、

世の中に対する好奇心を満たしてくれた。


大人になってもそれは変わらない。

旅行で観光地に行ったわけじゃなくても、

ただ家の近所をぶらつくだけでも、

なにか新しい発見があるのではないかとワクワクする。

住宅街には住宅街の、

田園地帯には田園地帯の、

繁華街には繁華街の、

オフィイス街にはオフィイス街の、

それぞれの趣きや味わいがあるし、

どんなところに、

どんな出会いが、

どんな感動が、

待っているかわからない。

好奇心や想像力さえあれば、

短い距離の散歩だって、

ロマンにあふれた、

冒険の旅となりえるのだ。

昨年亡くなった地井武男さん出演の番組、

「ちい散歩」みたいに。

画像

       街中にはこんなおもしろい光景も。

ところが、

携帯を見ながら歩く人は、

これら周囲のさまざまな表情や声を、

目をつぶり、耳をふさいで、

受け入れようとしない。

無視し続ける。

まるで孤独を好む隠者のように。


だが、その一方で、

彼らは、

今時のネット好きの若者と同様に、

人とつながることを切望している。

SNS、Twitter、LINE、プロフ

などを駆使しながら、

必死で人とつながろうとしている。

まるで、

孤島で一人暮らしの、

人との交流に飢えた人のように。


リアルの世界では、

周囲とのつながりを拒否しながら、

バーチャルの世界では、

ひたすらつながりたがる。

これって矛盾しているような気がするし、

なにか屈折したものを感じてしまう。

結局、

人恋しいんだけど、

深く関わるのは面倒だし恐いんで、

自分の都合で、

いつでもくっついたり離れたりできる関係性が、

気楽で居心地いいんだろうな。

恋にしても友情にしても、

実際の生々しい接触には、

リスクがあるからね。

自分が傷つくかもしれないという。

でも、本当は、

何事につけリスクを恐れていたんでは、

真の喜びも満足も得られないんだけどね。


僕としては、

ネットで千人の人と仲良くするより、

(現に、僕はYouTubeで、世界中に1200人の友達をもつ)

お互いをぶつけ合えるような、

ひとりの親友が欲しい。

それに、

周囲の人を無視したりしないで、

山などですれ違う人たちみたいに、

知らない人同士でも、

笑顔であいさつを交わすくらいの、

オープンな気持ちをもつことが、

人として大事だと思う。


            *        *        *


僕は子供の頃、漫画少年だった。

自身でも漫画を描き、

同じく漫画を描くのが好きな友人同士で、

互いの描いた漫画を読み合ったりしていた。

まさに、“漫画命!”で、

勉強もせず毎日漫画漬けの状態、

将来は漫画家になるのが夢だった。

アニメも大好きだった。


僕が漫画やアニメを愛したのは、

美しいものや楽しいことが好きだったからだが、

二十歳近くになって、

その美への憧れの気持ちが昂じて、

詩など純文学の方にも興味を抱くようになった。

そして、それらに挑戦していくうち、

少しずつそのよさが理解できるようになり、

22才の時に偶然出会った、

ゲーテの「ファウスト」という作品によって、

ヨーロッパの古典文学に目を開かされたのだった。


古典文学は現代文学と違って、

とても美的でファンタスティックだ。

そのファンタジーの世界の、

美しさ、

楽しさ、

奥行きの深さは、

漫画やアニメの比ではない。

それに、古い時代の作品は、

さながらタイムマシンのように、

僕たちを遠い過去の世界へといざなって、

時間の垣根を越え、

古(いにしえ)の人々と交流させてくれる。


清少納言の「枕草子」などを読むと、

千年前の人たちが、

現代に生きる僕たちと、

なんら変わらないことがわかり、

ひょっとして、

彼らが隣の部屋にいるんじゃないかと、

錯覚を起こしてしまうくらいだ。


とにかく、

世界のあらゆる地域の、

あらゆる時代の、

優れて魅力的な人たちと、

時空を超えたおつき合いをするほど、

刺激に満ちた楽しいことはない。

SNSで交流したり、

Twitterでつぶやき合うより、

1兆倍も楽しい。


みなさんも、

ぜひ古典文学に挑戦してみてください。

数学などと違って、

人の想いや心情を扱っているものなので、

自らの心の垣根を取り払い、

澄んだ明るい目で見つめれば、

きっと、向こうの方から、

声をかけてきてくれると思います。


人間、

自由に、柔軟に、

物事を受け入れられるのは、


“25才まで”

貴重な時間をぼーっと過ごさず、

がんばって想像力を鍛えて!!



            *        *        *


僕はまだ十代の頃、

イギリスの哲学者、

バートランド・ラッセルの「懐疑論」という著作を、

読んだことがある。

物事をなんでもかんでも頭から信じるのではなく、

自分の頭でよく考えてみることの重要性を、

説いたものだ。

それによると、

まず、疑問を抱くことが大事なのだという。

しかし、

疑問を抱くためには想像力が必要。

想像力が発達していなければ、

すべてのことが頭の中を素通りしてしまう。

アンテナがついていないテレビの上を、

電波が素通りしていくように。

なぜなら、

想像力は、

さまざまな情報をキャッチする、

アンテナの役割を果たすものだからだ。

このアンテナはきわめて重要。

これがなければ、

自らの身の危険を知らせるシグナルでさえ、

見落としてしまうことになる。


先日、あるテレビ番組(番組名忘れた)で、

弁護士役の男性が、

次のようなことを言っていた。



“群れ”というものは、

どこまでもリーダーに従って進んでいく。

たとえ自分たちの行く先に、

崖が待ちかまえていようと。

それが目前に迫ってきても、

ひたすらリーダーに従って前進していく。




おそらく、

この“群れ”のほとんどの者は、

この先、

谷底に転落して死ぬことだろう。

想像力をもって、

自分たちの行動に疑問を抱き、

“群れ”を離れた者以外は。



            *        *        *


余談だが、

みなさんのなかには、


“旅人は、

時空を超えた楽しみを味わってるとか言ってるわりには、

愚痴ばかり言ってて全然楽しそうじゃないな”



と思ってる人もいるかもしれない。


確かにそのとおりなんだけど、

僕の場合、

現実の生活で困難が多過ぎて、

つらいことばかりなんで、

人生を楽しむだけの余力がないんだ。


運が悪いというのはこういうこと。

どんな英知も情熱も、

運命の神には勝てない。

厳しい現実の前では無力なのだ。

歌手の故M.Hさんのように、

天使のような人でも、

若くして、

無残に苦しみもだえながら、

死んでいくしかない。

つまるところ、

運がすべてということだ。


でも、

古典文学で培った知性が、

僕にとってまったくの無駄だったかというと、

そうとも言えない。

というのも、

それがなかったら、

自分、

生きてこれなかったと思うから。


もっとも、

これは、

どんなみじめな人生でも、

生きているということは善いこと

だという、

前提に立っての話だけどね。


            *        *        *


想像力さえあれば、

たとえ寝たきりの人だって、

世界を旅することができる。

ウージェーヌ・イヨネスコの言うように。


一方、

想像力のない人間たちが、

異国の風光明媚な場所や、

由緒ある地域を訪れても、

旅をしているとは言えない。

なぜなら、

彼らは、

モノを求め、モノを見るだけで、

その地の心、

すなわち、

歴史や文化を理解しようとしないので、

真の旅情やロマンを、

感じることができないから。




 「この椅子、このスタンドをかなり永い間じっと見つめていると、旅行しないでも旅行がはじまって、世界がふたたび新しくなる。」

             ウージェーヌ・イヨネスコ
              (1909〜1994年、フランスの劇作家)






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