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zoom RSS なぜ最高峰を目指すのか

<<   作成日時 : 2014/03/13 21:15   >>

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源氏物語に挑戦。僕が古典を読む本当の理由とは。

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僕は、若い頃からヨーロッパの古典文学に親しみ、

のちには日本の古典文学も読んで、

10年くらい前には、

すでに、


“この世界における、

読むべき価値のあるものは、

ほとんどすべて読み尽くした”



という思いを強くしていた。


しかし、

ただ一つだけ読み残している作品があった。

「源氏物語」である。


もちろん、

その価値は知っているつもりだった。


「源氏物語」は、

僕に言わせると、

西の横綱であるプラトーンの著作と並び称される、

東の横綱だと思う。


それを読まないかぎり、

僕の“美のリスト”は、

ポッカリと大きな穴が開いた、

とんだ欠陥品だということになってしまうだろう。



ところで、

美のリストとは、


“この世でもっとも美しいものが見たい”


と、

若い頃からずっと願ってきた僕が、


“これこそ真の美である”


と認めた作品を書き連ねた、

言わば、

“超一級芸術作品の一覧表”みたいなものである。


僕は、

何十年も前に

それを作りはじめ、

これまでの人生で出会った、

珠玉の作品たちを、

リストアップしてきた。


2012年の3月には、

そのリストを、

「不思議な夢&美のリスト」 と題し、

ブログでも公開している。


ちなみに、

ブログでは記載事項を、

外国作品(青文字)、

日本作品(緑文字)、

オートバイ(ピンク文字)という具合に、

3ジャンルに区分している。



僕は、「源氏物語」について、

日本の古典を読みはじめた当初から、

美のリストを完成に近づけるためには、

どうしても通らなければならない関門であると、

意識していた。


しかしながら、

あの分量である。

原文で読むことを考えると、

途方もない時間と労力を要する作業になることは、

目に見えていた。


予想される過酷な作業に恐れをなしていた僕は、

その存在について、

できるだけ考えないようにしていた。


“NHK教育テレビの古典講座で、

何時間も勉強したから、

その内容については多少はわかっている”



そんな言い訳めいた言葉を頭の中で繰り返しながら、

逃げ回ってばかりいて、

いっこうに挑戦しようとしなかった。


もちろん、

いくらテレビで勉強したからといって、

実際に読んでもいないものを、

美のリストに記載するわけにはいかない。


だが、

しかし、

紫式部や、

その著書である「源氏物語」の抜けた美のリストなんて、

酢の入っていない酢豚みたいなもの。

(酢が入ってなければ、ただの豚)

“美のリスト”の名に値しない。


そこで、

悩んだすえ、

僕はいいことを思いついた。


“テレビの古典講座で見ただけでも、

紫式部の偉大さは十分わかったし、

読んでいないので、

「源氏物語」という書名は記載できないが、

作者の紫式部の名を記すだけならいいのではないか。

その才を高く評価し、

美のリストにふさわしい人物と認めているわけだし”



ということで、

僕は紫式部の名だけ、

美のリストに記載することにした。

そして、そうすることで、

なんとなく、

読まなくても許されるような気になって、

以来、源氏物語のことは、

ほとんど頭に浮かべなくなった。



僕は思っていた。


“美のリスト”、ほぼ完成!! d (=^▽^=)


僕はこの世でもっとも美しいものを見た!

真実を探りあて、

真理を見きわめた!

僕は人智の最高峰に立った!!




満足感にひたりつつ、

前述のように、

ほぼ完成したものとして、

僕は、そのリストをブログに記載し、

誇らしい思いで、

世間一般に公表した。


これで、

自身の人生に課された課題を、

すべて、

無事、クリアできたような気がした。

これからは、

何の制約も受けず、

自由にのびのびと生きられるように思った。


しかし、

人間、生きてるかぎり、

一つの状態に留まってることなんて、

できないものだ。

少なくとも、僕は。


自らにプレッシャーをかけながら、

何かに挑戦したりして、

常に新たなる刺激に身をさらさないと、

なんか物足りなくて、

生きてるような気がしない。

やはり、

人間、死ぬまで勉強なんだろうか?


ところが、

ここ1〜2年の僕はといえば、

そのように熱中できるような対象を、

次々と失ってるのだ。


オートバイについては、

乗ればそれなりに楽しいものの、

種々の事情で、

イマイチ情熱を感じられなくなっている。


文学についても、

前述のように、

やりきった感があって、

自己満足による閉塞状態。


ネットに関しては、

最近、面白いブログを書く人たちが、

相次いで記事を更新できなくなったりして、

興味を惹かれるようなブログが少なくなったし、

YouTubeにしても、

そのSNS的機能が、

ほぼ失われたことにより、

チャンネルを見たり、

友達を増やしたりする楽しみがなくなった。


友達は1200人くらいいるはずなんだけど、

もはや、彼らのチャンネルを見る気もしない。

YouTubeは、

そういうものになってしまったのだ。


YouTubeの動画そのものも、

珍しいものはひととおり見てしまったので、

もう飽きてきた。

ついでに言えば、

三面記事中心のネットニュースにも飽きた。


ということで、

今は、

ネットに何かを期待するなんて気にはなれない。


最後の頼みの綱だったAKBについても、

ここのところ、

運営サイドの迷走で、

多くのファン同様シラケきってしまって、

以前のようには気分が盛り上がらない。


さらに、

過去のブログで、

これからやっていきたいものとして掲げた、

超常現象の探究なんて、

どっちみち無理な話だとわかった。

情報も機会もなく、

なんのとっかかりもないので、

やりようがない。


ま、

そりゃそうだわな。 (´д`) =3



所詮、夢想の世界?



そんなこんなで、

このところの僕は、

楽しみもやるべきことも、

まったく見出せない状態だった。

マンネリ化した毎日を、

ひたすら漫然と過ごす日々が続く。


でも、

こんな状態をいつまでも続けられるわけがない。

そんなの生理的に無理。

目標がないってことが、

こんなに苦痛だとは思わなかった。

自由でのびのびどころか、

毎日が、ただただ退屈で味気ないばかり。


そうした状況になかで、

僕は思うようになった。



なにかやらないと、

心も身体もおかしくなっちゃう。


と。



そして、

そう思いはじめたやさきのことだった。

例の“美のリスト”の欠落部が頭に浮かんだのだ。

僕は、素直な、ごく自然な気持ちで思った。



“「源氏物語」を読もう”



これまで、

自分をごまかし、目をそらし続けてきたけど、

今は、それしかないと。



ということで、

今年に入って、

現代語訳付きの「源氏物語」を買い、

(冒頭の写真参照。文庫だが、1万円近くもした)

現代語訳を参考にしながら、

原文で読みはじめた。


それは、予想どおりの大変な作業だった。

なんてったって、

原文で読んだそのままのかたちで、

その意味内容を把握しつつ、

すんなりと頭に入ってこなければ気がすまないのだ。

そうじゃないと、

原文で読んだとはいえない。


しかし、

そのためには、

一字一句、原文と現代語訳をつき合わせ、

なんども原文と訳を往復しながら、

読み進めていく必要がある。

というのも、

原文の古語の多くは、

現代でも使われている言葉なのだが、

その意味がまったく違うからだ。


たとえば、

「そうぞうし」という言葉は、

現代では「うるさい」とか「やかましい」という意味に使われるが、

「源氏物語」の時代には、

「静かでものさびしい」というような意味で使われていた。


このように、

同じ言葉が、

現代とはまったく別の意味で使われているので、

暗記するにしても、

英単語のように簡単にはいかない。

なにしろ、そのほとんどが、

自分自身、今も普通に使っている言葉ばかりなので、

どうしても、

その語を見た瞬間、

現代の意味が頭に浮かんできてしまうのだ。

したがって、

なかなか当時の意味を憶えることができない。



このように、

その言葉の現代の意味を、

頭から取り除きながら読むというのは、

想像以上にストレスのかかる作業だ。

そのため、

遅々として先に進まない。

一つの句、一つの節単位で、

原文から訳文へ、訳文から原文へと、

なんども見返しながら読む。


そのほかにも、

古い時代の文章を読むにあたっては、

立ちはだかるさまざまな障害と、

戦わなければならない。

“主語がわからない”とか、

“現代の男性にはわからないような、

当時の女性の微妙な心情を、

思いのままに綴っている感じなので、

文脈がたどりにくい”


とか。

へたすると、

現代語訳を読んでも、

意味が把握できないことさえある。


しかしながら、

このようなことでへこたれてたら、

読むのをあきらめるしかない。

かといって、

適当に読むんだったら、

読まない方がまし。

それじゃ、内容が理解できないし、

内容が理解できなければ、

そもそも、読んだことになどならないんだから。

とにかく、辛抱して読み続けるしかない。



このようにして、

悪戦苦闘しながら、

桐壺の巻からはじめて、

若紫の初めの部分まで、

読み進めた時のことだった。

そこで、

一つの奇跡が起こったのだ。


2月のある日、

「源氏物語」を読んでいると、

とても不思議な感覚にとらわれた。

いつもだったら、

単語の意味とか、

文脈のつながりとか、

終始、そんな細かいことばかりに気をとられて、

物語としての面白さを味わう余裕など、

まったくないのに、

その時にかぎって、

そんなことにはいっさいおかまいなしに、

ひたすら物語の世界に、

引き込まれてしまったのだ。

若紫の、

北山における、

源氏と尼君の歌のやりとりの場面でのことだった。

僕は、両者の優美なやりとりに魅了され、

酔いしれて、

あまりの快感に、

頭がくらくらしてめまいを覚えたほどだった。


古典を読んでいて、

このように読んでる途中で(読み終える前に)感動したのは、

初めてのことだった。



古典の作者というものは、

近現代の作品の作者と違って、

読み手の“手を取り足を取って”、

自らの作品の世界に導いてくれるような、

そんな親切心も文章テクニックも、

持ち合わせていない。

そのため、読者は、

自身の想像力を最大限に駆使して、

苦闘しながら、

読み進めなければならない。

たとえて言うなら、

古典の世界を行くというのは、

暗くてうっそうとした未知の森を、

想像力という小さなともしびだけを頼りに、

さまよい歩くようなもの。

あるいは、

雲上にそびえる、

高く険しい山に登るようなものなのだ。


遠い昔の物語という、

未知の森を進むには、

それなりの道標が不可欠。

その道標は、

“注釈”というかたちで、

読者に示される。

古典を読み、

その内容を理解するためには、

この“注釈を参照する”という作業が欠かせないのだ。


その注釈は、

時に膨大な量に及ぶ。

そんな膨大な注釈を読みながらの読書は、

まさに、難行苦行。

ひたすらつらいだけ。

なんせ、

ギリシア古喜劇なんて、

本文よりも注釈の方が、

断然、分量的に多いんだから。


でも、その作業は、

どんなにわずらわしくても、

省略するわけにはいかない。

もし、省略してしまったら、

まったく意味がわからず、

読んでいないのと、

同じ状態になってしまうから。



その他いろいろあって、

古典を読むのって大変。




でもね、

何千年もの歳月を生き残り、

僕たちを、

人智の最高峰にまで、

登らせてくれるようなものが、

そんなに簡単に、

理解できるわけないんだよ。

真に価値あるものは、

楽していては、

手に入らないんだ。



真の絶景は、

苦しみながら登りきった者だけに、

見ることが許される。


努力して最後まで読み通せば、

頂上からの素晴らしい眺望が開け、

深い感動を味わうことができる。




そんなわけで、

本来、

読んでる最中は、

表面上の意味を理解するだけで手いっぱい、

中身を味わう余裕などさらさらない。

だから、

読み終える前に、

作品の価値を理解したり、

感動したりするなんてことはまずないのだ。


少なくとも、

僕に関しては、

そんなことは一度もなかった。


しかし、

にもかかわらず、

今回、

前述のように、

「源氏物語」を読んでる途中で、

まだ読み終えてもいないのに、

感動することができたのだ。

これは、僕にとって、

一つの奇跡みたいなもの。

非常に驚いたし、

感激はひとしおだった。



さて、

そのようにして、

感激にひたっていた僕なのだが、

その時、脳裏に、

あることがひらめいた。



“「源氏物語」を、

美のリストに加えてもいいのではないか”




僕は思ったのだった。

本来は、

最後まで読まなければ得られない感動を、

きわめてまれなことに、

今の段階で得ることができた。

もちろん、

最後まで読めば、

今とは比較にならないほどの、

大きな感動が待っているに違いない。

でも、

まだ、全体の十分の一くらいしか読んでいなくても、

その段階で得られた感動は、

正真正銘、嘘偽りのないものだ。

僕は間違いなく、

この「源氏物語」という偉大な作品の、

本質の一端に触れたんだと思う。

そして、もしそうなら、

たとえ最後まで読んでなくても、

この作品を、

僕の“美のリスト”に、

加えることが許されるのではないだろうか。


その思いは、

即座に確信へと変わった。

僕は、「源氏物語」を、

美のリストに加えることに決めた。

そして、

すでに同リストに記載されている 紫式部 の名のわきに、

誇らしい思いで、

次のように書き加えた。



「源氏物語」玉上琢彌訳注(角川ソフィア文庫)



これによって、

今度こそは、

本当に、

僕の“美のリスト”が、

完成に近づいたように思えた。



もちろん、

そんなの錯覚。

これで終わりじゃないし、

実際、

“美のリスト”は永遠に未完成だと思う。

逆に、そうじゃないと嘘になる。



「源氏物語」については、

当然、最後まで読むつもりだ。


一応は・・・


というのも、

この調子じゃ、

いつになったら読み終わるのか、

検討もつかないし、

僕のように運のない人間は、

いつどうなるかわかったもんじゃないから。


読み終えるまで生きてられる保証なんて、

どこにもありゃしない。

なにしろ、

明日のことを考えただけでも、

バチが当たりそうな、

そんな超低空飛行の人生なんだから。





以上のように、

僕は、



“この世でもっとも美しいものが見たい”



という思いから、

多くの難解な古典に挑み、

読破してきた。

そして、それらのなかで、

最高峰に位置づけるにふさわしいと認めた作品を、

“美のリスト”に記載してきた。

だが、

それではなぜ、

そんな苦労をしてまで、

最高峰の美に執着するのか。



“なぜ最高峰を目指すのか”



その思いのなかに、

“それら究極の美を鏡として、

そこに映る自分の姿を見てみたい”


すなわち、

“自分は何者であるのか”

という、

人間の、

人間としての、

根源的な問いに対する答えを、

見つけ出したいという願望が内在することは、

確かだと思う。


僕自身、それについては、

はっきりと自覚している。


しかし、

僕が最高の美にこだわる理由は、

それだけではない。

というより、

本当の理由は、

むしろ別のところにある。


その本当の理由とは何なのか?

それは、高度な判断力 を身につけたいということ。

というのも、

最高の美とは、

最高の知であり、

最高の知とは、

英知にほかならず、

人は、その英知を身につけることで、

本質を見抜く目が養われ、

正しい判断ができるようになるからだ。




そもそも、

正しい判断ができるということは、

僕にとって、

人間として、

もっとも重要なことなのだ。


というのも、


正しい判断は、

人を災厄から救うが、

その逆に、

誤った判断は、

人を災厄に陥れるから。

しかも、

それは、

自身について言えるだけでなく、

他人をも巻き込んだかたちでそうなる。


僕は、

自らのミスで他人を犠牲にしたくないのだ。




この世には、

戦争や自然災害など、

同時に多くの人を不幸に陥れるような災厄が、

数多くある。

それらについては、

戦争はもちろんのこと、

自然災害といわれるものについても、

本当のところ、

人災である場合がほとんどだ。

すなわち、

多くが判断ミスによる災厄ということ。


東日本大震災による津波によって、

多くの児童の命が失われた宮城県石巻市の、

大川小学校の事例もその一つ。


同小学校においては、

裏山に避難すべきだという、

一部の教師や生徒、

わが子を迎えに来た母親らの、

切実な訴えに対し、

校庭で待機することを主張した教師と、

その意見を採用した教頭の判断ミスにより、

70名(その他4名が行方不明)もの児童が犠牲になった。

そして、この判断ミスにより、

結果的にではあるが、

校庭待機を主張した教師と、

それを受け入れた教頭は、

多くの児童の死に、

責任を負わねばならない立場となった。


ガス中毒による多くの死者を出した、

パロマのガス湯沸器の事故も、

点検作業に関する、

ごく常識的な判断力があれば防げたものだし、

福島の原発事故についても、

判断力の不足から、

事故後の処理の過程で、

不測の事態を何度も招いている。


世界における歴史的な事件について言えば、

ナチスによる600万人ものユダヤ人虐殺を許した、

ドイツ国民の判断ミスなどは、

悲劇的事例のさいたるものだろう。


古代ギリシアの哲学者プラトーンの哲学には、

師と仰ぐソクラテスが、

民衆の誤った判断によって、

裁判で有罪となり、

死罪に処せられた事件の影響が、

色濃く反映されているように思う。

彼は、

哲学によって人々の知性を磨き、

そのような誤った判断をしない市民を、

育成することにより、

正義の原理に則った国家を、

建設しようとした。



マスメディアでは、

毎日、いろいろな事件や事故が報道され、

判断ミスによって、

それらの事件、事故を引き起こしたとされる人物は、

メディアでたたかれ、

視聴者たる一般の人々によってもたたかれる。

みな、そういう人をたたくことによって、

自分が正義の側に立った気でいる。


しかし、

それだけでいいんだろうか?

というのも、

僕は、他人事じゃないと思うのだ。

判断ミスなんて、

誰でも、

犯す可能性があるものだと。


なぜなら、

その人たちだって、

普段は、ごく平凡で善良な市民なんだから。

肝心な時に判断を誤り、

重大な結果を招いた点を除けば。


大川小で校庭待機を主張した教師も、

パロマのメンテナンス業務の責任者も、

福島原発の事故後の処理を担当する責任者も、

ナチスを熱狂的に支持したドイツ国民も・・・



みんな普通の人。

好んで判断を誤ったわけじゃないし、

特に無能な人でも、

異常な人でもない。

ましてや、

悪魔の申し子なんかじゃない。

みな、ごく平凡な一般市民。


僕が何を言いたいのかというと、

前述のように、

誰でも、

そのような判断ミスを犯す可能性があるし、

最悪の場合、

多くの罪もない人を死に追いやった、

張本人となってしまうことだって、

ありえるということ。


考えたくもないことかもしれないけど、

これは真実であり、

人間社会で生活している以上、

誰にでも起こりうることなのだ。


それでは、

そのような不本意なことにならないためには、

いったいどうすればいいのだろうか。


端的に言えば、

判断力を養うしかない。

物事の本質を見抜いて、

的確な判断をくだせるよう、

知性を磨くことによって。



では、

知性を磨くにはどうすればよいのか。

それは、

古典を読むこと。

これに尽きる。

古典には有益な知恵、

すなわち、英知がつまっている。

そのため、

古典を読めば、

人間と、世界のありようが、

鮮明に見えてくる。

そして、それが見えれば、

政治、経済、社会、

芸術にいたるまで、

あらゆることの本質を察知でき、

起こりうべきさまざまな問題に対処する際にも、

いろいろと応用が利くようになるのだ。

当然、

物事の本質を察知できるようになるわけだから、

判断ミスをする確率も低くなるはず。



欧米では昔から、

将来、国の重要なポストにつくであろう、

エリートのタマゴたちに、

ギリシアやローマの古典を学ばせている。

やがて、一国の運命を左右するような、

重大な決断を迫られないともかぎらない彼らに、

国をよりよい方向に導くために必要な、

判断力を養ってもらいたいからだ。



僕は、

若い頃すでに、

誤った判断が、

恐ろしい結果をもたらすことを知っていた。


何もしなければ、

自分だって、

時代や状況の変化によって、

ナチス時代のドイツ国民のように、

迫害を支持する側にまわりかねないと、

自覚していた。



それで、

判断ミスを犯さないためには、

いったいどうすればよいのか、

その方法を模索したわけだが、

その過程で、

古典文学と出会い、

それを読み始めたのだ。



それが運命ならしかたない。

運命は避けられないものだから。

でも、

運命なんて誰にもわかりゃしないし、

わかりもしないもののことを考えても、

何の意味もない。

だから、

僕たちは、

自らの信じる最良の道を歩むべく、

今、自分にできることをするしかない。


僕は、これからも、

美と知の最高峰を目指す。

少しでも、

判断ミスを減らすために。


判断力は、

自然に身につくなんてことはないし、

頭は、

常に鍛えていないと、

鈍ってきてしまうから。







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